2022年9月30日。大阪。
ひとつの、ミニシアターが閉館した。
「ただいまをもちましてテアトル梅田を閉館させていただきます。
32年間、ご愛顧いただきまして、誠にありがとうございました」
支配人が、多数のメディアの前で挨拶し、頭を下げた。
あわせて、ほかのスタッフたちも深々と礼をした。
惜しみない拍手が、集ったファンたちから贈られた。
写真提供:関西キネマ倶楽部
1990年。梅田の商業施設「ロフト」の誕生とともに生まれた映画館。
1980年代から始まったミニシアターブームの中で、関西の多くの人に親しまれた。
映画業界では2000年代にはいると、シネマコンプレックス(シネコン)が台頭。そんな中でもテアトル梅田では「ここでしか見られない良作」をかけつづけ、映画ファンたちは足しげく通った。
そして2022年夏。
ホームページに「閉館のお知らせ」が記載され、ツイッターで投稿されると、映画ファンたちの間に衝撃が走る。
今も同館に通っている人だけでなく、関西を離れた人、若い頃に観客だった人、さらには映画監督や俳優ら映画人にまで多くの反響があり、新聞やネットニュースはこの「事件」を大きく取り上げた。
最終日、最後の支配人となった木幡さんは、こう話していた。
「こんなに愛されていた映画館だったんだ、と。幸せな気分でいっぱいです」
「テアトル梅田が果たしていた役割はいったん終わったと感じていますが、また新たな映画文化のバトンがつながっていくことを期待したいです」
惜しむ声がたくさんある中で、支配人を含めスタッフの方々は前を向き、「映画文化のこれから」に思いをはせているように思えた。
愛されていたことの感謝と同量の、「テアトル梅田がつないだ未来」への目線があった。
その光景を見たのが、この連載を始めるに至ったきっかけである。
テアトル梅田が閉館しても、テアトル梅田がこの地に32年あったという歴史が消えるわけではない。
ここで映画を味わった人たちの人生はきっと豊かになったし、影響を受けた映画人たちも無数にいる。
確実に次の世代の作り手、次の世代の観客の感覚にまで、「何か」を残したはずだ。
「映画館がなくなって悲しい」
そう言葉にするのは簡単だ。
だがこの紋切り型の言葉だけで、愛されてきた32年を言い表せることなど、できるはずないだろう、とも思った。
だからなんとか言葉を尽くして
「テアトル梅田がつないだバトンの正体」
をときほぐしていこうと考えた。
これは、テアトル梅田の追悼連載ではない。
テアトル梅田が「愛された映画館」だったことを解き明かすエッセイであり、インタビュー記事であり、ルポルタージュである。
執筆:森田和幸
キネプレ代表・ライター。 |