こんにちは。歌人の奈良絵里子です。
藤澤さなえさんの「ビューワー・ビューワー」第2回を読んで、私も年配の方に囲まれて映画を見たことを思い出しました。
その映画は「大河の一滴」。2001年頃の、場所は広島市近郊のどこかの公民館。
ざっくりとした情報で申し訳ないのですが、当時は確か中学3年生の冬休み。近所の映画館では公開がなく、新聞の折り込み情報紙か何かで上映を知ったのだったと思います。今回は同級生のSちゃんを誘って、またしても母親に車で送ってもらいました。
知らない街の小さな公民館、さすがに中学生なので泣きだすようなことはなかったのですが、ちょっと緊張しました。
中に入ると、座席も固定式でしっかりとしていましたが、映画館特有のぴりっとした空気はなく、のほほんとした雰囲気。それは、おばあさんとおじいさんでいっぱいだったから。それも杖をついているような、70歳から90歳くらいの、シニア層ばかりが集まっていました。
子供どころか、若い人も見当たらない状況、私たちちょっと浮いているかなと、Sちゃんと顔を見合わせていると、暗幕が引かれて上映が始まりました。
「大河の一滴」は五木寛之の随筆が原作で、主演は安田成美。冬の金沢を舞台に、父や友人の死、異国の人との恋、生きる信念など、かなり重たいテーマの作品です。
上映館を探してまで観たかったのは、当時大好きだった俳優、渡部篤郎が出演しているから。それに、セルゲイ・ナカリャコフというロシアのトランペット奏者が俳優として出演するのも気になっていました(ちなみにSちゃんは吹奏楽部員だったので、それを理由に誘ったような気がします)。
さて、映画はシリアスなシーンが続き、しんみりとした曲が流れ、私の胸がじーんと、しようというとき。
「わはははは!」
とおばあさんおじいさんの笑い声が。
あれ、今のシーン、なにか面白いことあったかなあ、と戸惑いながら見ていると、その後も「爆笑」と呼んでいいような笑い声が、何度も何度も会場に響きます。
例えば世代が違うとつまらないギャグだった、という風でもなく、本当になにげないシーンで、会場が笑いに包まれていたのです。
帰りの車の中でSちゃんも「なんかおばあさんたち、不思議なところで笑ってなかった?」 と話をしたので、違和感は私だけじゃなかったようです。
当時の私は、映画館で他人の気配や音がするのは、ただじゃまなだけのものだと思っていました。でもこのときは不思議と嫌な気持ちはなく、その後も長いあいだ、あの体験はなんだったんだろう……と気になっていました。
30歳を過ぎた今、なんとなくわかるのは、ある年齢を経ないとわかりにくい「おかしみ」みたいなものが確かにあるんだなということです。……身体的、文化的な共通体験というのでしょうか。
例えばこの前、近所の古本屋さんで90歳を超えるおばあさんに「前はこんな小説もよく読んだけどな、今は小さい字が、なかなか見えへんから、ぜーんぜん読まれへんねん、わはははは!」と話しかけられました。面と向かうと自然な「わはははは」でしたが、よく考えると、自分の衰えを笑うというのは、少しちぐはぐな気もします。
でも、照れ隠しや笑い飛ばすというだけはなく、自分の身体の変化……できたことができなくなってしまった、ということへの「おかしみ」というのがあるんじゃないかなと思います。今の私には完全にはわからないけど、そんな感覚があるんじゃないかという気配。
同じように、子供だけが、若い人だけがピンとくる笑いや悲しみというのもあるはずです。年齢や世代で感覚をくくるのは多少乱暴ですが、映画館のざわめきの中に、自分と違う人間の存在を感じる出来事でした。
【今回の一首】
かなしみを手渡されたと思ったら 静かにひらく花束でした
執筆:奈良絵里子 1986年生まれ。大阪在住。中学校の国語の授業がきっかけで短歌を趣味にする。枡野浩一短歌塾四期生。 同人誌『めためたドロップス』ほか短歌とミニエッセイの寄稿など。コワーキングスペース往来にて月1の講座「もしも短歌がつくれたら」スタッフ。伊丹市立図書館ことば蔵にて「そうだ、歌会始行こう!」など、短歌初心者向けの小さな催しをたまに企画する。 |