夢みたいな現実だった。
あまりに順調で逆に恐ろしくなる。
大鳥紗理奈と婚約した直後、二人はあちこちに結婚する旨をふれまわった。
人生において、あまり敵を作ってこなかったこともあってか、ご祝儀は順調に集まった。
もちろん、唯一の肉親である母親にも伝えた。
母としてはやはり結婚式をやって欲しかったようだが、二人で決めたことならと飲みこんでくれた。
大鳥の方も映画館関係者や常連さんからもご祝儀が集まったと言う。
たった一週間で百人から総額二五〇万円。母親からも結婚資金にと貯めていた通帳を渡すと言われたが、集まらなかったときに協力して欲しいと伝えておいた。
とにかく、これで映画が完成しなかったらただの詐欺だ。
いつもの企画会議も熱が入る。
「何杯目のコーヒーや。カフェイン中毒になるで」
「タバコ吸わないだけマシだろ? 中毒は映画だけで充分だしね」
梅田地下の秘密会議場――サイゼリヤ。
いつもの席に陣取り、アキトシとヒョーロンは絵コンテ制作に入っていた。ヒョーロンがソファー席で、アキトシが椅子だった。
企画の中心は決まっている。
シナリオの大まかな筋もほとんどできた。
後は具体的にどんな映像を撮るかだ。
本当はこの場にこそカメラマンであるスタンリーがいて欲しいのだが、彼はあいにくのバイト。とりあえずの形を二人で作る運びとなった。
映画において絵コンテはあってもなくてもいいもの……ともいえる。
実際、絵コンテなしで映像を撮る人は多い。
絵コンテを必要とするのは、どちらかと言えばアニメの方である。
けれど、実写映画であっても絵コンテがあった方がいいとアキトシは考えている。
過去、自主製作で撮った映像は絵コンテを切らなかった。そのせいで「ここはもっとこうしておけば」「少し考えればアイディアが出てきたのに……」と激しく後悔したことがあるためだ。
それに巨匠アルフレッド・ヒッチコックも絵コンテについて言葉を残している。
――映画は撮影の前に完成している。
つまり、撮影に臨む前に絵コンテで映画そのものは出来上がっているわけだ。あとの撮影は完成されたイメージを具体的な形にしていくだけ。
とくに予算の限られた状態では、効率よく撮影を進められるに越したことはない。
ヒョーロンと二人がかりなのはシナリオを書きつつ、出来上がった部分から絵コンテを切っていくという作業だからだった。
とにかく黙々と作業を進めていく。お腹が空いたら注文し、喉が渇けばコーヒーを。
傍から見れば一生懸命に勉強している大学生に見えるかもしれない。
「でけた。送るで」
「了解。こっちのチェックして」
ヒョーロンはシナリオのワンシーンが完成するとアキトシのスマホにその部分だけ送ってくる。同時、アキトシは別のシーンの絵コンテを渡す。
アキトシは出来上がったシナリオを読んで、どんな場面にするのか熟考し、ヒョーロンは絵コンテをざっとチェックするのだ。
二人とも誰かに見張られている方が仕事をするので、こういう形にしている。これが意外に功を奏しており、かなり作業がはかどっていた。
「アキトシ、この場面はもっとアオリの方がいいんちゃうか?」
ときたまヒョーロンが意見を挙げると、すぐさま検討に入る。
「なんでアオリ?」
アオリとはカメラを視線よりも下に配置し、人物を見上げるように撮ることだ。
「ここ、ワイの想定やと不安というよりも圧力なんよ」
「圧力……それなら確かにアオリだけど、キャラの心情からして不安の方が強くない?」
「なんで不安が強くなるんや?」
「さっきまで仲良かったのに、一言で変にドギマギするんだよね?」
「そこやな」
「だとしたら『本当は上手くやりたいのに……素敵な未来にたどり着けると思ったのに、もう瓦解するの?』的な解釈かと思ったんだ」
「あー、なるほどな。ワイの感覚やと『なに言いだしたんだ? 仲良くする気あるのか? それは空気読めてないだろう』的な感じなんよね」
「その考えだと確かにアオリだけど……」
顎に手を当て、しばらく唸る。
こんなとき、基準にするのは映画を観るお客さんの心情だ。
結婚式のご祝儀を予算にする……というアイディアは、実は観客を絞ることにも繋がっていた。
基本的に観に来る人は、アキトシと大鳥に関係している人物なのだ。
上映会が例え一日であったとしても、結婚式に来るのと一緒だと考えれば足を運んでくれる人も多いはず。
引き出物の代わりに映画のディスクを渡せる上に、来れなかった人にも配布できる。
どちらにしろ映画館で上映し、観客を動員できたという実績は残るのだ。
少しあざとい気もするが、最初はそんなものである。
いきなり見ず知らずの人が映画館へ大量に押し掛けることなど、滅多にない。
だからこそ、観客が望む方向の展開、演出がイメージできる。
「ええか、アキトシ。今回の話は結末がハッピーエンドっちゅーんがミエミエなんや。だとしたら……」
「理解!」
みなまで言うなとアキトシは人差し指を立てて見せた。
「最悪な展開こそが観客のドキドキに繋がるから、ここは圧力。対立のイメージがいいね。ヒョーロンの言う通り、アオリで行こう。だとすると、ここの演出はさらに……」
小物を使ってさらに対立、圧力のイメージを作り出そうとアイディアを練る。
例えば、手元にあるフォーク。
これが相手の方を向いていたり、画面に映っているだけで『危険』な感じが出るはずだ。
険悪な雰囲気という意味では『汚れ』も使えるだろう。今のようにパスタを食べているなら、テーブルにソースが跳ねているだけでも雰囲気は悪くなる。
ただ、アオリだとテーブル上は使えないので、別のものを汚す必要があった。例えばコップだ。
アキトシは水の入ったコップにフォークを入れてみた。
ナポリタンを食べた後だったので、オレンジ色の油が水面に浮かぶ。
「これでどうかな?」
「……なーるほど。ええんちゃうか。普段もあんまり見ぃひん光景やから、インパクトもあると思うわ。でもどうやってそんな状況になるんや? 演出のためだけに行動を変えたら違和感がえらいことになるで」
「それもそうだね……」
キャラクターの性格や生い立ちはもう決まっている。下手な行動はキャラ崩壊に繋がりかねない。
やりたい演出があるときはキャラクターを変えるのではなく、どうすればそのキャラクターが演出に辿り着くかを考えなければならない。
あくまで『そのキャラクターがやりそう』な自然な流れを作り上げなければ。
「……ちゅうか、このまんまの流れならやりそうなんやけどなー」
「まんま……アイディア出し……あ、そうかっ」
「お? なんか思いついたんか?」
「今、俺がアイディアを考えてるみたいにすればいいんだ。このシーン、高校のときのシーンだろ? 二人がちょっと勇気を出してランチに行った。けど、それは文化祭のアイディア出しで、録音のつもりが録画になってて……そうすればアオリにもなるし」
「おお、撮影のカメラがどこになるかも決まるやん」
「カメラの設置、できるだけリアルにしたいもんね。これでいろいろ問題が片付く」
「よしゃ、さっそく書き直すで」
そして再び作業に没頭し始める。
ノリに乗っているときは、本当に周りの音が聞こえなくなる。
だから誰かが席に近づいていたのにも気づかなかった。
「二人とも、作業は順調そうだな」
気づかなかった。
「……おい? 無視か?」
気づかなかったのだ。
「……お前ら……」
誰かがテーブルをノックする。そこで初めて気づく。
アキトシが顔を上げると、視線の先にはスーツ姿のマダピーがいた。
「あ、ご、ごめん。マジで気づいてなかった……」
「いや、集中していたならすまない。いいか?」
ヒョーロンがソファー席のスペースを譲る。
マダピーの表情は硬い。
仕方ないことだ。彼は最後の方まで大鳥の起用に慎重で反対さえしていたから。
結婚資金を映画の資金にすると告白した時も、眉間に皺を寄せていた。
それに彼はまだご祝儀をくれていない。
やはり怒っているのだろうか?
「少し話があって来た」
改めての言葉。
マダピーのこういう態度は、大体が悪い報告の時……
思わずアキトシは油の浮いた水を飲む。
味に違和感を覚え、慌ててコーヒーを口直しにあおった。