前に恋をしたのは、いつだったか?
居酒屋のバイトを終え、徒歩で帰路についたアキトシはぼんやりと高校時代のことを思い出していた。
アキトシが高校二年生になった頃、ちょうどインターネットの動画サイトが出てきた。
素人が世界に向けて映像を発信する時代になったのだ。
携帯で写真を撮るのはもちろん、短い映像も撮れるようになっていた。手元には高校の入学祝いに買ってもらった最新の携帯電話。ワンセグテレビもSDカードに映像も記録できるタイプだった。
自分も、映画の世界に踏み出せると思った。
問題は記憶容量と編集用のパソコンだったが、学校のモノをこっそり使うという手段でなんとかし、ちょっとした映像を作ったものだ。
ほんの一分たらずの動画だったけれど、何度も何度も再生して観返した。他人が観たら、つまらないに違いない。それでも自分が作った映像は、どんな映画監督が撮った映画よりも特別だった。
楽しくて、嬉しくてしょうがなく、DVDに焼いて友達に見せた。
この調子で長い映像にしたら映画になるんじゃないだろうか? ひょっとしたら、他の人も面白いと言ってくれるかも知れないし、名だたる監督たちと戦えるんじゃないだろうか? そんな気分にさえなった。
ただ、母親には、少し恥ずかしくて見せられなかった。
そんな映像がきっかけとなり脚本家を目指す友達ができた。二人で話し合い、夏休みに共通の友達とちょっとしたショートフィルムを撮ることになった。
その時、役者になってくれた女の子と、恋に落ちた。
二年生の夏休みが終わり、正式に付き合うことになった。
彼女はアキトシのことを褒めてくれたし、自慢にしてくれた。
映画を見に行って、カラオケに行って、好きな漫画を貸し借りして、メールをやり取りして、夜には電話をする。そんな交際だった。その年のクリスマスには初めてのキスをした。
きっとこのまま、この人と結婚するんだろう。
当時は本気でそんな風に考えていた。
結局、脚本を書いていた友達と浮気をしていたことが判り、アキトシは人生で初めての絶望を味わった。砂利を口に含んだように、苦かった気がした。
最初は泣けなかったが、夜、寝れずにぼうっとしていると急に涙があふれたのを覚えている。
三年になって、クラスが変わった。全員バラバラになり、顔を合わせることが少なくなった。それが唯一の救いだった。
それからしばらくは将来の事、受験の事で忙しく、恋について頭を使わなかった。そんな中でアキトシに優しくしてくれたのは、映画たちだった。
いろんな苦難を乗り越える主人公、楽しい気分にさせてくれるコメディシチュエーション、人生の手助けになるセリフ……
落ちこんだとき、きついと思ったとき、集中力がなくて勉強に身が入らないとき、何度も何度も助けてくれた。
ただ、そんな映画を一度は自分で作るところまで行ったのにと、胸の中が燻ぶる毎日が続いた。
翌年。大学の経済学部へ進み、バトミントンのサークルに入る。
映画のサークルに入らなかったのは、結局、夢を諦めたからだった。
映画監督になんてなれるわけがない。実際に取り掛かって、人間関係で痛い目を見た。それでも映画は好きだったけれど、下手に制作側に回って未練を残したくない。
だから、灯ろうとした情熱の火を消すためにも、まったく関係ないサークルを選んだのだ。
そこでアキトシは次の恋をした。
いや、恋だったのかは怪しい。
なんとなく好きになられて、なんとなく付き合って、なんとなく体を合わせた。好きだったというよりは、好きだと思いこんでいた……という方が正しいかも知れない。
ただ、そんな付き合いを通して、少しだけ前向きになれた。
そんな彼女には不思議な言葉で振られた。
『アタシと付き合ってたら周りに滲(にじ)んでいくんだもの。それじゃアタシはつまらない』
周りに滲む。
当時はなんとなく判るような、判らないような言葉だったけれど、的を射ている気がした。だから、彼女を恨むよりは、感心してしまった。
それ以来、アキトシは恋をしていない。
恋をしたとするなら、映画にだろう。
社会人になって、自分が判らなくなり、目標を失い、本当に自分が滲んでしまったとき、もう一度だけ本当に愛したものに全力を注ぎたくなった。
「ただいまー」
ワンルームの家に戻ると、いつものように独りごちる。返事はない。
狭いベッドと小さな薄型テレビ。小さな本棚、床に散らかった服と出し忘れのごみ袋。積みあがった本、積みあがったDVD。
片付けなければと思いつつ、忙しさに呆けて手を付けてない。
「疲れたー……」
固いベッドに体を横たえ、疲れを追い出すように深い息を吐く。
意識が滲んでいく。
お風呂に入らなければ、体が臭くなる……という思いが、自分を保っていた。
――大鳥さんに嫌われちゃうな……
ふと、彼女の笑顔を思い出してしまう。
なぜ、彼女なのだろう?
恋に落ちるほど話をしただろうか?
恋に落ちるほど彼女の見た目が好みなのだろうか?
以前の恋人に言われた一言を思い出す。
『あなたは人生をどこか客観視していて、だからこそ他人と違う気がした』
もし、今の自分を客観視するならどうだろう?
確かにアキトシは大鳥のことが気になってしょうがない。
見た目は……嫌いではない。
けれど、面食いなわけでもない。かわいい、綺麗な方が嬉しいが……
――好きになるとするなら……
尊敬していた映画仙人と同じ場所にいるから?
同じものが好きな異性がいて、それも同じように愛してくれていて、笑顔がかわいくて綺麗で……
どんな映画を観るか一緒に迷って、同じ映画を観て感想を語り合いたい。
どこか素敵な場所へ行って物語を互いに話し合いたい。
登場人物を妄想して、小道具のアイディアを出して、映像を考えて……
――いやいや、映画のことばっかじゃないか……!
と、言っても、それ以外の付き合い方が判らない。
普通のデートとは?
普通の付き合い方とは?
なんだか想像がつかない。
むしろ、そういう無理をしなくても一緒にいられそうだから、惹かれている……?
昔、彼女はミニシアターの受付をしていた。その頃は特に意識していなかったけれど……今は支配人という肩書があるせいだろうか?
簡単には手に入らない肩書だ。
もし、自分に映画を撮る才能がなかったなら、せめて映画に囲まれる仕事に就きたいと思っていた。選択肢のひとつがミニシアターで働くことだ。
映画監督になれなかったときの保険……という訳ではないのだが、やはりアキトシにとって映画監督は特別な職業で、それ以外はどこか負けた気分になる。ミニシアターで働いても、単なるアルバイトで終わる可能性だってあるのも、判っている。
――やっぱり二〇代で支配人になってるってすごいな……
よくよく考えると二〇代の支配人などほとんど聞かない。
知っている支配人や館長はみんな中高年だ。若くても四〇手前くらい。
情熱が買われてなのか、それとも特別な事情があったのか……冷静に考えれば考えるほど珍しいことだ。
そういう『すごさ』も、彼女に惹かれる理由かも知れない。
しかし、同時に彼女が自分より上等な存在に思えた。
自分は夢を叶えていない。それどころか、まともな職業にも就いていない。部屋も汚いし、人間として優れているわけでもない。
そんな自分が彼女に恋?
可笑しくて、悲しくて、無力感に苛まれる。
ふと、自分の手を見た。
変哲のないただの指だ。少しだけ細くて、指の節々が少し大きい。
なにも掴めていない、無力な男の手。
このまま彼女に触れてしまうのは、危険な気がした。
経済面では稼げず、精神面ではコンプレックスを抱え、彼女を守る力どころか、自信さえない。
自分のわがままで近づけば、きっと、どこかで彼女を傷つける。
――『シザー・ハンズ』……
ふと、両手が鋏だった男の物語を思い出す。今でも人気を誇るティム・バートン監督の初期の方の作品だ。
俳優ジョニー・デップ扮する主人公はカラフルな街にやってきた白黒の男。彼は命を吹きこまれた人形で、その両手は鋏でできていた。
最初は怖がられたが、心優しい人たちに触れ、世間に馴染み、流され、利用されていく。
そんな中、一人の女の子と恋をするが……近づけば近づくほど、その子を傷つける結果になった切ない物語。
なんとなく、自分が主人公と重なる気がした。
ジョニー・デップほどかっこよくはないけれど。
ティム・バートンの描く世界ほど素敵でもないけれど。
本当は世間に馴染めないくせに、馴染んでいる振りをして、人並みになったように思って恋をする。
けれど、自分の正体を知って、絶望するのだ。
――僕は、恋をしちゃいけない。せめて、映画監督になるまでは……
両手で顔を抑え、少しだけ擦る。
生暖かい滴が、どこからともなく流れ出た気がした。