人は落ちこんだり不安になったりすると、安心できる場所へ行きたがるらしい。
その内のひとつが故郷なのだろう。
アキトシは奈良で生まれた。今も母が一人で市内のマンションに住んでいる。梅田からだと地下鉄御堂筋線を使い難波へ。その後、近鉄奈良線の急行電車に乗り換える。一時間もかからない。帰ろうと思えばすぐだ。
ただ、母には映画監督になるという夢を応援してもらっているため、簡単に帰れない。
きっと諦めて帰っても母は責めたりしないに違いない。ご飯を一人で食べるのが寂しかったから、ちょうどいいんじゃないとも言ってくれるだろう。
そう思うと、母はかわいそうな人だ……
早くに夫……アキトシの父を亡くし、当の息子も夢のために近場とは言え家を出ている。
酷いことをしている自覚があった。
ならば早く帰ってあげた方がいいのではないか……とも考えるが、それは夢を諦めるための、自分を慰めるための言い訳だろうし、母の応援を無駄にする気がした。
好きなことは、やめられない……
母のためにも、自分のためにも、そして早くに逝ってしまった映画好きの父のためにも、映画監督になるのが一番なのだ。
『故郷に錦を飾る』という言葉を思い出す。
いつからある言葉なのかは知らないが、昔の人も同じ気持ちで、同じようなことを考えたのだろうか?
炎天下の中、少しだけ寂しい気持ちになりながら、アキトシは梅田から少しはなれた場所にある中崎町を歩いていた。十字路の多い住宅街に見えるが、あちらこちらにお店が潜んでいる。特徴的なのは交差点の角が切り落とされたみたいになっているところだ。いつも車が曲がりやすそうだなと思う。一車線の上に歩道もないような場所なので、車とすれ違うことはほとんどないが。
なぜアキトシが中崎町に来ているのかというと、ここに行きつけのミニシアターがあるからだった。
ミニシアターは読んで字のごとく小さな映画館。行く先は大型スクリーンのある部屋がひとつに、ホームシアター的な部屋がひとつあるだけだ。
館自体も少し大きめのマンションの地下一階にある。らせん階段の前にはガラスに入った掲示板があり、上映している映画のポスターが貼ってあった。降りると赤煉瓦と太陽がたくさん集まったような花の巨大なオブジェが出入り口を飾っている。気になって調べたがタンジーという花らしい。その下には大きなブリキの看板があり『ノイエ・キネマ』という文字が打ち出してあった。全体的には何かの秘密基地や、迷宮の入り口を思わせる。
雰囲気が好きだという点もあるが、ここは特に面白い特集やイベントをやってくれた。支配人とも仲が良いので、第二の実家のように思っている。
ただ、好きだからと言って、ここにばかり来るわけではない。用事がない日は観てない映画を近くのミニシアター順に回ったりもしていた。
しかし、今日は新しい映画が目的ではなく、帰るに帰れない実家の代わりに尋ねたようなものだ。
企画会議では結局なにも決まらなかった。
けれど、アキトシの中には『自分の本当に撮りたいもの』を探す課題ができた。それはアキトシの夢に向かう力を少しだけ揺るがせ、不安にさせている。自分自身のことなのに見つけるのが難しいからだ。
不安を拭うため、大好きな映画に触れたい。映画を愛している人たちに触れたい。それに、ひょっとすれば撮りたいものが判るかも知れない。
「お、いらっしゃい」
低い天井の館内に入るとまず目につくのは本棚だ。販売用のもので、映画関係の本がぎっちりと並べられている。その手前にレジがあった。迎えてくれたのは若松という中年の男性で、ここのスタッフだ。特徴としては前髪の一部が綺麗なロマンスグレーになっている部分が挙げられる。
「次の観てくかい?」
「はい、一枚お願いします」
ミニシアターではチケットは整理券になっていた。映画が始まる際に整理券番号で順に呼ばれるからだ。扉が小さいので出入りの混雑を防ぐ意図と、早く来た人がいい席を取れるようにの配慮もあってだろう。
大型の映画館――通称シネコンは券売機でチケットを買うことが多くなったので、人から受け取るチケットの価値が高くなったような気がした。
映画は海外の知らない監督作品で、ギリシャの映画だった。珍しい……が、ちょうど特集で欧州映画祭をやっているのだ。当たり前といえば当たり前だ。
「この特集っていつまでですか?」
「あれ、メール見てない? あと二日だよ」
ノイエ・キネマの会員登録をするとイベント情報のメールが届くようになっている。ちゃんとチェックしていたのだが、忘れていた。
「あ、そっか後二日……」
「最近きてなかったもんな。忙しかった?」
「あ、バイトがけっこう入ってて。今日もこの後、居酒屋なんですよー」
「なるほどね。来ないと心配するし、たまには来てくれよ」
「売上も下がっちゃいますしね」
「それな」
互いに少しだけ笑い、指を差し合う。
次のお客さんがきたので、アキトシは通路としかいいようのないほど狭いロビーへ行く。壁面にあるチラシを見て次に観る映画を選ぼうとした。
ドキュメント、ミステリー、サスペンス、アクション……いろんなジャンルがある。
しかし、どれもテレビコマーシャルはしていないマイナーなものばかりだ。
映画自体も低予算(ローバジェット)のものが多い。
つまり、ミニシアターはシネコンと違い、マイナー作品を多く扱う。他にも古いフィルム映画を上映したり、今回のように特集として共通性のある映画をいくつも取り上げる場合があった。
前はホラーナイトスペシャルと言って、最恐なホラーばかりを集めたものや、戦前映画祭と言ってフィルムの残っている戦前の映画を集めた特集などが催された。新進気鋭の若手監督を呼んでのトークショーなどのイベントもあった。
この特集やイベントの内容によって売り上げが大きく変わるようで、支配人はいつも特集のことを考えているらしい。ちなみに支配人は館長と呼ばれることもある。
――そういえば、最近、支配人に会ってないなー。そうだ。もし良かったら、話とか聞いてもらえるといいな。
白髪と白鬚が綿毛のような、柔らかな老人がここの支配人だ。映画が好きで好きで、たまらないらしく、いつも映写室で映画を見ているらしい。
今日も映写室にこもっているのだろうか? そうだと嬉しい。
仙人のような人が映画を愛し続けているという点も、このミニシアターを好きになった理由のひとつなのだから。
しかし、こう考えると好きなミニシアターならすぐに言えるのに、撮りたい映画となると混乱してしまうのはなぜだろう?
自分の『一番』が判らない。
大きな問題のようにも思えるけれど、人はわりと自分のことが判らないのだろう。
「ヘップッ!」
アキトシは思わずくしゃみした。
鼻の奥からさらさらした粘液くんが「こんにちは」をし、そのまま口に「さよなら」しそうだ。頑張ってすすって鼻に戻そうとするが、なかなか言うことを聞かない。
「あー、夏風邪かぁ?」
もしくは花粉症だろうか? 夏の花粉症はイネ科の植物かキク科の植物らしい。去年までは平気だったはずだが……
ひょっとしたら埃が鼻に入っただけかも知れない。
――これも自分のことなのに、よく判ってないな。
ティッシュも持っていたような気がする。肩掛け鞄を漁ろうとした。
そのとき、不意に箱ティッシュが差し出される。細くて小さく、白い手をした人だった。
しかし、解せない箱ティッシュ。しかもうさぎの顔が印刷してある鼻に優しいセレブ感のあるやつだ。
顔を上げて、差出人を確認する。
丸顔の少し小柄な女性だった。少女と呼べそうなほど幼い感じのするクリクリの目。薄いけれど、艶やかで張りのある赤い唇。ふわりと柔らかそうな栗毛色のボブカット。笑顔の綺麗な人だった。
「ノイエ・キネマは初めてですか?」
クスクスと笑いながら女性は言った。
「い、いいえ。わりとよく、来ます……」
「ですよね」
「はぁ……?」
なぜそんな話をされているのか判らない。この若くて綺麗な女性は誰なのだろう?
映画館に箱ティッシュを持ちこむ女性……涙腺がよほど弱いのか、それとも花粉症が酷いのか。
いや、こうやって配るのを目的で持ち歩いてる……のはだいぶおかしい。
なにかひとつ可能性を忘れている気がするが、それがなにか判らない。
「鼻水、落ちる前にどうぞ」
「ご、ごめん、ありがとう!」
自分が思わぬ醜態をさらしていることに気づき、慌ててティッシュをもらった。なんとか事なきを得る。
「ところで……」
誰ですかと、恐る恐る聞いてみる。
「どうも、わたし、最近ここの支配人になりました大鳥紗理奈(おおとりさりな)と申します。よろしくお願いしますね」
「えっ」
想定していなかった事態。思わず若松の方を見ると「あ、そっちも知らなかったか?」と言いたげな視線が返ってくるだけだった。
つまり、映画仙人は支配人でなくなり、この大鳥と名乗った若くて綺麗な女性が新しい支配人になった……?
慌てて彼女の方へ向き直る。
「初めましてっ! えっと、杵渕明敏(きねぶちあきとし)です……」
「初めまして……うーん。そうですね。あ、もし良かったらまた特集の感想とか聞かせてもらえたら嬉しいですんけど、あとでいいですか? 手ごたえはある感じなんですけど、常連さんの意見ももっと聞いてみたくて」
「あ、はい。はい! わ、判りました!」
なぜこんなにも動揺しているのだろう? 好きだった映画仙人がいなくなったせいだろうか?
「では、次の上映のご案内を始めます。整理券番号一番の方。……二番の方、三番の方……」
自分でもよく判らない気持ちのまま入場が始まってしまった。もぎり……チケットを確認しているのは映写技師の人だ。人手がないとたまにこうして手伝っている。
「あ、じゃあ映画、楽しんでくださいね。きっと心に名シーンです!」
「え、心、名シーン……?」
「あっ、えっと……響くとか、染みわたるとか、感じるとか、感動するとかってことです!」
「なるほど……?」
「始まっちゃいますよ!」
「あ、は、はいっ!」
もっと話したいが、何を話していいのか判らない焦りと、混乱から逃げ出せた安堵感が入り混じる。
アキトシはますます自分が判らなくなりながら、ギリシャ危機の中で暮らす若いギリシャ人の恋愛観と人生観、仕事観を堪能する二時間を過ごした。