胸がどきどきする。
こんな気持ちはいつ以来だろう?
パッと思い出すのは学芸会でセリフのある役をやった時だろうか?
『桃太郎』でおじいさんの役をやった。緊張してうまく口が回らず、お客さんに笑われてしまった思い出。
恥ずかしくて恥ずかしくて、死んでしまいたいとまで考えた。
(そう思うと、今の気持ちとはちょっと違うな)
ドキドキの奥にはワクワクがある。
楽しみにしていた映画を観に行くときと同じ感覚だ。
ただ、二つの気持ちが両立するのは、初めてではない。
過去に二人、同じ気持ちにさせてくれた子がいる。
どちらとも上手くいかなかった。苦い記憶。編集して捨てられれば、どれだけ楽なことだろう。
思い切りため息をついてしまった。
空はこんなにも青く澄み渡って、晴れやかだというのに。
「お待たせしましたー! 待ちました?」
梅田の繁華街。ドン・キホーテというお菓子から家電、薬、トレーニング器具などなど様々なものを売っているお店の前に現れたのは編み上げサンダルにベージュのロングスカートと白いブラウスを合わせた大鳥紗理奈だ。
いつもと雰囲気が違うのは髪を結って上げているせいだろう。
ここで待ち合わせになった理由は企画の話を聞いてもらった先日にある。
別れ際にアキトシは大鳥に稟冶のことをどう思っているのか聞いた。
彼女は笑いながら「監督として尊敬してますよ」と答える。
それは異性として意識はしてないと言っているのだろうか?
アキトシの頭は混乱したが、さらに「いいこと思いつきました! 今度『ローマの休日』デートしましょう!」と大鳥は続けた。
混乱を通り越して呆気にとられた。
しかし「映画は恋愛要素があるかもですよね? その取材ってことで。ロケハンもできますし!」と説明されて初めて安心できた。彼女の意図が判ったからだ。
ちなみに『ローマの休日』は名女優オードリー・ヘプバーンの出世作だ。イタリアで繰り広げられる架空の王女と新聞記者の恋愛物語。王道で、今でも視聴に耐えられる普遍的な名作。
その真似でバイクに二人乗りして大阪にある名所を巡ろうという話だ。
おかげで待ち合わせは、映画に出てくる『真実の口』に似た巨大な石の顔『古代遺跡うめどん』の前になった。
「いや、オレもさっき来たとこ」
「それなら良かった! じゃあ、さっそくお昼に行きましょっか?」
「おっけ、じゃあ近くにバイク止めてるから」
移動しようとした瞬間に『うめどん』が目を開き、鼻から蒸気を噴出す。
「おお、これ見れるのラッキーなんですって。まぁ、お店の宣伝でしょうけど、やっぱり見れると幸せな気分になれますよね」
悪い気はしない。なんだかこのデート……取材(?)は上手くいくような予感がした。
その後、二人は梅田の北に位置する中津へ向かった。
淀川に接している住宅街で高層マンションが固まっている場所もあれば、一戸建てが密集している場所もある。
デートで向かうには少し地味なところだが、ここに素敵なお店があるという。
「あ、そこ左に曲がってください。たぶん、そこに二輪駐車場があります」
たぶん、綿密に調べてくれていたのだろう。二輪駐車場は意外に少なくて探すのに困る。簡単な買い物なら違法駐車することもちらほらだ。
できればちゃんと駐車場に停めたいので、この気遣いはありがたかった。
「このスクーター、ベスパなんですね」
バイクを降りると大鳥は改めてスクーターを見ていた。ベスパはバイクメーカーの名前だ。『ローマの休日』でも、二人が乗ったバイクがベスパ社のもの。
「映画のとは型がぜんぜん違うけど」
「だとしても、やっぱりベスパで二人乗りって、なんか嬉しいですよ」
相変わらずな笑顔。それだけで楽しくなってしまう。
「さ、ここですよ。『カンテ・グランデ』!」
連れてこられたのはマンションの前。草木がおおい茂る一角があるだけで、お店には見えない。確かに看板らしきものが壁に立てかけられているが……
「マンションの中……?」
「いえいえ、ここを降りるんですよ」
その茂みの方へ大鳥が進む。見えなかっただけで降りる階段があるようだ。
階段を包みこむ森を少し進むと緑枠の大きな窓ガラスから店内の様子が見れた。
「へぇ、なんだここ、すごい……!」
森の中の秘密基地。そんな印象のお店だ。
丸や四角のテーブル。木や籐の椅子。そこだけで普通のお店とは違う雰囲気を感じる。
降りると赤色の扉が待っていた。
中に入る。まずケーキの並ぶディスプレイが迎えてくれた。
他には小物の飾ってあるカラフルな棚、人頭を模した置物や、ハニワみたいな人形――インドの神様のように見える。
そういえば、目に入る小物も布地もインドの雰囲気だ。
「あ! カレー屋さんっていうか、インド料理なんですけど、大丈夫でした?」
「そこ、いまなんだ……い、いや、大丈夫だけど」
「じゃあ、よかったです。話し合ってたときの条件に見合うお店だーって考えたら、早くここに来て欲しくって」
確かに緑に赤……補色が利いていて面白い。青と黄色も壁と小物の中に見える。
スタッフに案内してもらい、大きな窓際の席に着いた。他のお客さんもちらほらといる。意外に知られているらしい。
窓から見える光景は地下とは思えない。本当に森が広がっているようだ。お店に入っただけで非日常を味わえている。
「あ、お店の奥の方はギャラリーに?」
「そうなんですよ。たまに展示会をしてるらしくって、今もちょうど」
話していた内容そのままだ。ここならスタンリーの要望に応えられるかも知れない。
「さ、ご飯いただきましょ! 雰囲気だけじゃなくて、ちゃんとお料理もおいしいんですよ」
「あ、ナンで食べるんだ? 本格的だなぁ」
「違いますよ、チャパティです。ナンは発酵パンで実は歴史が浅いんですけど、チャパティは非発酵パンでものすごく古くから食べられてるんです」
「ってことは、より本格的なのか」
定食のセットはタンドリーチキンにライス、チャパティ、サラダ、チキンカレー。他のメニューにはココナッツカレーやドライカレーなどがあった。
どれもひとかじりしてみたいが、財布と胃が耐えられなさそうだ。
大鳥の話によるとチャイも有名で、このお店が大阪にチャイを広めたという話があるくらいだそうだ。
「他にも有名な話って言えば、アキトシさんは『ウルフルズ』って知ってます?」
「『バンザイ』とか『ガッツだぜ!!』とか『笑えれば』とか歌ってるバンドだよね?」
「なんと、そのメンバーがここでバイトしてたって話ですよ。ここで結成されたとかって噂も。あと、たまに来店されるんですって」
ミーハーではないのだが、有名人御用達だと店にすごみを感じる。
きっと、ここで彼らは苦労しながらも笑って、未来に希望を抱きながら夢を追いかけた。喧嘩もしただろう。バンド活動が上手くいかなくて悩んだこともあるだろう。
いろんなものを乗り越えて夢を掴んだ……自分と仲間を信じ続けて……
そんな妄想をするだけでアキトシは泣きそうになってしまった。
夢を追いかけ、夢を掴んだ人がいる。
その出発点のような場所にいられることが、嬉しい。
「あれ、大丈夫ですか? 辛すぎました?」
「あ、ううん、大丈夫。でも、確かに辛いね。最初に甘みが来るからそんなに辛くないと思ってたのに」
涙をぬぐいながらカレーを食べる。
大鳥は柔らかく微笑んでくれた。
それからショッピングをするために二人は再びバイクに乗って移動する。
今度はアキトシのリクエストで心斎橋のアメリカ村へ。
梅田からは御堂筋をずっと南へ下るだけ。それでも少し長めのタンデムは『ローマの休日』そのもののように思えた。
帽子や鞄、シャツなどを見て回る。カジュアルなものや古着屋が多いので、普段とはファッションの傾向が違う。それが逆に新鮮で面白い。
二人でアレやコレやと着飾ってみては「モブキャラっぽい」だとか「〇〇監督の作品に出てきそう」とか「ミステリで最初に殺されそう」と言った感想を言い合った。
日が傾き始めた頃におやつタイム。三角公園(正式名称は御津公園らしい)の近くにあるたこ焼き屋でアキトシはたこ焼き、少し歩いたところにあるジェラート屋で大鳥はバラ型のジェラートを買う。
いろんな味を一枚づつ花びらに仕立てるジェラートは芸術性が高く、大鳥は「すごいすごい」と語彙を失って大はしゃぎした。
そんな大鳥とファッションビル『ビッグステップ』へ向かう。そこには地下へ続く大きな階段があった。
ちょっとはしたないが、雰囲気重視ということで二人は階段の中ほどに座った。
「確かにここ、スペイン広場の大階段みたいですもんね!」
「ね。オレもそう思って。でも、たこ焼きは失敗だったかな」
雰囲気が足りないという意味で。
「いいんじゃないですか? 大阪らしさがあって。あ、でも晩御飯はどしましょ? わたしもジェラート頂いちゃってますが」
「そっちは全然きめてないなー」
「『ローマの休日』では……確か水上レストランでしたっけ?」
「そうだった気がする。ちょっと南に行けば道頓堀があるから、そこで食べよっか」
「はーい!」
子供のように手を挙げて賛成してくれる大鳥。見方によってはあざとい気もするが、自然と出ている仕草だと思えば、単純にかわいいと思ってしまう。
(意外にオレ、ちょろいのかも……)
そんな、彼女に夢中だったせいかガラの悪そうな男たちが、背後にいることを見逃した。
「んっ?……あっ!? ご、ごめんなさい!」
手を挙げた先に大男。ジェラートがべっとりとハーフパンツについてしまった。
「あーあー……なにしてくれてんねん、おまえ……」
まずい。たぶん狙って寄ってきたのだ。置き引きか、恐喝か、嫌がらせかは判らないが。ただ、ジェラートをたっぷり塗りたくられるのは誤算だろう。
どちらにしろまずい。ちょっとガラが悪いのもアメ村の特徴だが、まさか絡まれるとは。
「いちゃこら見せつけてくれてると思えば、人様のパンツまで汚しおってからに……」
大鳥の手が取られそうになったとき、アキトシはとっさに体を割りこませた。
けれど、頭の中にはなんのプランもない。
真っ白だった。