大阪の梅田という土地は、江戸時代の頃に湿地帯を埋め立てたので『埋田』と呼ばれるようになったらしい。字面が悪いので後々『梅田』と改められたようだ。それまでは下原と呼ばれていたと言う。
つまり、二〇一七年現在の梅田地下は、そんな埋め立てた場所を逆に掘り返して築きあげた場所と捉えられる。
地上へ降り注ぐ夏の熱など届きはしない、そんな地下へ続く階段を降りた先にあるファミリーレストラン『サイゼリヤ』は冷房も利いているし、空気が淀んでいるようなこともない。快適そのものだった。
さらに奥の方の席は、広い大阪にある数少ない隅っこのように思えた。
「裏梅田っていうと、ちょっとアンダーグラウンドっぽくて面白くないかな?」
不意なアキトシの一言。対面のソファー席に座る七三分けと黒縁メガネが特徴的な男友達ヒョーロンは苦笑した。今日もチェック柄のシャツだ。
「アンダーグラウンドって、もともと地下やん」
「……え、いや、そ、そうなんだけどさ。こうクライム的な感じのさ」
「んー、みなまで言わんでも判るよー。判るよー。ワイはそんなアホちゃうからな。まぁ、そういう意味では裏梅田に潜って悪だくみ。まさにやな。ええ感じに犯罪臭がするな。そやっ、このレストラン、襲撃でもしたらどやろ?」
ちょうどそばに来た高校生と思わしきウェイトレスがヒョーロンの顔を伺いながら、そっと隣の席を片付けている。
「冗談、冗談やで? イッツジョークっちゅーやつやで? 気にしんといてな?」
「あ、はい……あ、えっと、ご注文は……?」
動揺しているらしい。
「あとで三人くるし、今はまだええよ。ごめんな、ありがとさん」
ヒョーロンは合掌しながらウェイトレスを見送る。
「今の間の悪さ。なかなかアメリカコメディっぽいな」
「いやぁ、イギリスドラマちゃうかな? シュールやブラックジョークはイギリスのお家芸やで」
「あぁ、確かにそうかも」
ヒョーロンは映画にこだわらず様々なものを見まくっている。アニメ、テレビドラマはもちろん、小説や漫画、随筆に舞台、なんでもござれだ。数もアキトシに引けを取らないどころか、アキトシさえも勝てないと思うほどだった。
「他のやつらは遅れるて?」
「うん。JRで遅延があったみたいだね」
「人身事故か? こんな帰宅ラッシュ前に? まぁ、ええか。どちらにしろワイらが帰る頃には落ち着いてるやろし」
「なかなか優しさの含まれないセリフだねー」
「しょうがないやん。ほんまの事故ならかわいそうやけど、自分から飛びこんだりしてるんなら話はちゃうからな。わがままで人様に迷惑かけとるんやから、気にしてるのがアホらしいわ。死に様が駄作やで」
「手厳しいね」
ヒョーロンはなんでも批評したがる。これは一緒に映像の専門学校へ通ってた頃から変わってない。仇名がヒョーロンなのは、そのせいだ。
「なんや、アキトシはワイに聖人君子になって欲しいんか?」
「批評の内容がってだけ。ほら、死んで名作になる物語もあるだろ?」
「せやなぁ。ロミオとジュリエットしかり、若きウェルテルしかり、宗教の教祖さまに、数々の芸術家の人生もやな。つまり、電車に飛びこんでワイらが恐怖したり、涙したりと、なんかあればええってことやろけど、ねぇ?」
「まぁ、どんな人生を送った人が、何を思い悩んで、どんな思いで飛びこんだか……なんて判んないもんな。現場に居合わせてるわけでもないし」
「居合わせたくはないけどな。グロいのは話の中だけで充分やわ。聞いた話やけど、飛び散ったもん、ぜんぶ回収できな運転再開できんらしいで?」
「え、誰が集めんのそれ……」
「駅員らしいわ。駅員がゆうとった」
「確実に心すり減るな……」
「やろ? 駅員からしたらスリラーやで」
「名作の予感」
「褒めたらあかん。どんな事情であれ、ほんまもんの自殺はあかんよ」
ヒョーロンの関西弁もあいまって深作のことを思い出した。
――俺の夢は残酷やった。
それでも、命を奪わないだけ優しかったのかも知れない。
いや、むしろ生き続ける方がきついかも知れないが。
夢が破れたとき、自分はどうなるだろう?
……まるで想像できない。
死ぬまで諦めきれない気もするし、大体、死ぬような勇気があるようには思えない。それでも、永遠に夢を追い続けるのも勘弁だ。なんとなく、将来は映画監督になっている気がしてならない。
それなのに今はまだ監督になれてない。思わずため息がもれた。
そのとき視界の端にスーツ姿の男が映りこむ。
マダピーだ。白くて細身なのと黒目勝ちな瞳が特徴的で、アキトシは痩せた白いリスみたいだなといつも思う。
「お、来たんか。空けるわ」
ヒョーロンが自分の黒いリュックを足元に移動させた。
「悪いな。あとのことを考えるとこっちに座る」
「あぁ、スタンリーは確かにソファーの方がええな」
マダピーがアキトシの隣に座ると同時、水をテーブルに置いた。そういえばお冷はセルフサービスだ。いつもマダピーかシノブがやってくれるので忘れていた。
「電車、大丈夫だったんか?」
「電車? 僕はママチャリだ」
「ああ、そやったな。単純に遅刻か」
といっても、待ち合わせ時間の四時から一〇分程度しか経っていない。
「早いだろうと思った方の道が混んでてな。失態だ」
相変わらず口調が固い。それなのにマダピーという間の抜けた仇名なのは彼の本名が山田というのと、スタジオジブリの鈴木敏夫というプロデューサーに少し似ているのが関係していた。
プロデューサーのことを俗にナニナニ『ピー』と呼ぶ。ナニナニの部分には苗字が入った。つまり普通に言い換えればヤマダピーなのだが、語呂が悪いので、誰かが不意にマダピーと言い始めた。本人は気に入ってないらしいが、他の呼び方が不自然なほど定着している。
「電車が遅れてるのか? だからスタンリーとシノブも遅れて?」
「そういうこっちゃ。ところで例の一件はどないなん?」
「その話はみんなが揃ってからする。二度手間は面倒だ」
「例の一件……ってアレか。資金集めか。いつもありがとな」
アキトシはヒョーロンの真似をして合掌した。
「気にするな。僕の分野だ」
マダピーも映像専門学校で一緒になった仲間だった。けれど、彼は早々に監督への道をあきらめた。それでも映画への思いは断ち切れなかったらしく、才能のない自分でも関われる方法を探した。結果、資金集めという面倒極まりないが映画作りには絶対に必要な部分を見つけ出したのだ。ちなみにインディーズの資金集めとしてスポンサーを探すのは珍しいことだった。
その資金集めの腕を磨くため、人脈を広げるため、マダピーは家具屋の営業に就職している。さらに目下マーケティングを勉強しているらしい。まさにプロデューサーの道一直線だ。
ただ、口にしにくいことだが……実績はまだ上がっていない。今まで集めてくれた分は家族や親戚を除けば、友達からだけ。定石でしか成功していない。
「それにしても、話し合いが遅れるのは困るな。まだ回らなきゃいけないとこがあるんだ」
「地に足ついてるのはうらやましいけど、会社は大変やなぁ」
「ノルマさえ達成してればこうしてサボりたい放題だ」
「達成できればね……オレ、営業とか絶対できなさそう。そこはマダピーすごいよな。いつもは無愛想な感じなのに。営業先では受けがいいの?」
マダピーは優しさと頼もしさを感じる笑顔を作り上げた。まったくの別人になったみたいで気持ち悪い。
「やっぱ役者の方が向いてるんじゃ……」
アキトシが言うと、マダピーはいつもの無愛想な顔に戻る。
「物事の本質を掴んでない笑顔なんて役に立たないさ。自分の実力くらい自分で判ってる」
早々に決めつけてしまうのがマダピーの悪いところだなと思うが、逆にアキトシは未来を信じすぎて、夢見がちだと怒られる。それでも、マダピーには「やってみればいいのに」と言いたいが黙っておくことにした。
「しっかし、いつになったら来るんやろ?」
「集合の時間からまだ二〇分も経ってないけど? ぜんぶ拾うまで運転再開がないなら一、二時間は動かないんじゃ?」
さすがに待つには長すぎる。それまでなにも頼まないのも、お店に迷惑だろう。アキトシはメニューを手に取った。
「毎回こういうことがあると思うんやけど、いっそみんな同じとこに住んだらええんちゃうか?」
ヒョーロンのせっかちな一言にマダピーが首を振る。
「卒業のときに出てた案は却下だ。プライベートまで近いと関係性が崩れたときに修復が難しくなる。金の問題で揉めたりな。実際、別のやつらは三ヶ月で破綻してたぞ」
「仕事とプライベートは別って考え方は確かに気が楽だよね。ハンバーグかオムライスにしようかな……んー、パスタも捨てがたいな……?」
「仕事やあらへんけどな。どっちかって言うたらフルタイム・ホビーや」
「なんだそれは?」
聞いたことのない単語にマダピーが反応した。アキトシも視線を向ける。
「どっかのエッセイにあったんやけどな、趣味の中にもちょっとした手間でできるもんと、そうでないもんがあるやろ?」
「あー、テニスとか、ゲームとか、絵とか?」
「そうそう。んでも、それなりの登山や演劇、映画撮影っちゅーのは最低でも一日をフルに使うやろ? 練習にしろ、本番にしろ。そういうのがフルタイム・ホビーっちゅーわけや」
確かに映画を撮るのは大変だ。こうやって空いている時間を見つけて打ち合わせをしたり、ロケーションハンティングをしたり、脚本を書いたり。
撮影も一日中かかるのはもちろん、数日にわたることも多い。趣味だとしても手間がかかりすぎている。
「つまりオレらはフルタイム・ホビイストなわけね」
「趣味人のままでは困るけどな」
アキトシの一言にマダピーがかぶせてくる。ごもっともだ。やはり続けるならプロがいい。
三人同時に苦笑し、三人同時にため息をついた。
「……早くメジャーになりたいな……」
ぽつり本音が出てしまう。言わないでも判る、みんなの願い。
「……そうやね」
だから、同意の言葉は簡単だった。
「とにかく、映画を撮ろう。まずはそこからだ。上映するものがなかったらメジャーもなにもあったもんじゃない」
マダピーの一言に少しだけ背中を押される。
そしてちょうどレストランの入り口の方に見知った二人が入ってきた。
立派なガタイに一眼レフカメラと黒いタンクトップを合わせたスタンリーと、小柄な体格にオカッパが特徴的なシノブだ。電車の遅れは、そこまで酷くなかったらしい。
これで全員そろった。
まずは始めの一歩だ。
「じゃあ、企画会議しようか」
ヒョーロンもマダピーもアキトシも、お冷のコップを端にのけると、それぞれのメモ帳を机の上に広げた。